TOP >> 中国旅行特集 >> 旅順(りょじゅん) ★2008年2月時点の情報です★
 
『旅順にいかなければ大連に来た甲斐がない』と言われる風光明媚な街!
  大連から車で40分ほどの所にある旅順。軍事施設が点在する街で、軍港には軍艦なども多数あり。日露戦争(1904〜05)の舞台としても有名で、戦跡も生々しく残っています。

2008年2月現在、外国人が観光できる場所は203高地、東鶏冠山堡塁、水師営会見所の3ヵ所のみです。中国人向けのツアーでは特に制限が無いため、観光内容が随分違います。去年のニュースでは今春に開放を予定しているとか・・・どうなることやら?

印象的だったのは乃木大将の次男(乃木保典)が亡くなった場所に石碑が建っていたこと。地面の下には探し出せなかった人なども眠っているそうで、その上にしっかりと育っている松の木や松ぼっくりが何だか亡くなった方達の魂を受け継いでいる気がして・・・



 @日露戦争の主要戦場、203高地へ
 Aロシアの要塞、東鶏冠山堡塁
 B日露両軍★水師営会見所
 Cその他〜旅順の風景や建物など〜
  
旅順博物館、旅順高等女学校、
  旅順師範学堂、旅順ヤマトホテル、
  関東都督府、旅順駅、旅順港など。

★ご注意★
旅順に関するサイトを色々見ましたが、知らずに回ったり、何とかなるだろうと安易に行っているケースも多いようです。しかし、基本的には許可無しで見つかった場合は罰金や留置所行きになることもありますので、遊び半分で行くのはやめて下さいね!

【現地旅行社の相場】
大連からの日帰り旅行で行ける旅順。2人〜3人で行く場合の相場は1人あたりは以下の通りでした。外国人が観光できる場所は3ヵ所のみで、新市街地などは一応未許可となっています。未許可地区での観光で捕まった場合は、罰金40万元(約600万円)かつ拘留とのことなので、くれぐれも旅行社を通して、外国人ツアーに参加するようにして下さい。JHC経由の格安ツアーはオススメです。但し安いツアーはガイドの日本語能力が微妙なこともありますので、その点はあしからず!6人ぐらいになれば、550元→350元ぐらいになりますので、詳細は各旅行社にお尋ね下さいませ。どこも日本語が出来る人がいますので安心です!

 ◆JTB(010-6524-8181)⇒旅順のみ:700元
 ◆大連国際旅行社(0411-8398-7806)⇒旅順のみ:550元、旅順+大連市内:700元
 ◆大連東来旅行社(0411-8899-5518)⇒旅順+大連市内:550元
 ◆遼寧北方国際旅行社(131-9016-2612)⇒旅順のみ:350元、大連市内:150元
   大連市内は午前コース、旅順は午後コースがあり、スイスホテル・シャングリラ・日航・ラマダプラザ大連から毎日出発しています!
   ※JHC経由でホテルを申し込めば上記の内容が更にお安く!旅順のみ:175元(又は2500円)、大連市内:無料
空港やホテル、一部の日本料理店でも売っていたこの本。中国語版(38元)が翻訳され、英語版、ロシア語版などの外国語版が出ており各70元(約1,000円)です。旅順に関しては、外国人未許可の観光地を含めて12ページに渡って書かれており、とても充実しています。実はこれは中国のアマゾン(ネット)から約52元で購入できます。北京や上海の大都市では宅配もしてくれます。FUJIKOイチオシ!
こちらは空港で見つけた本で即購入してしまいました。220元と高いのですが、昔の大連や旅順の白黒写真が多数あります。人民芸術出版社では初回版などがこれよりも安く出ていますが、出来れば最新版を購入にするのをオススメします。ネットからは購入する際は、郵便振込みのみです。北京市内ならば宅配してくれます。各都市の本があるので、是非とも見てみて下さい。
 @日露戦争の主要戦場、203高地へ

日本は1894年の日清戦争で得た遼東半島を三国干渉(露・独・仏)で清に返還したものの、結局ロシアが大連と旅順を租借することになり、それを巡って1904年の日露戦争が勃発。その際この203高地が主戦場となったのです。当時は206mあった高台でしたが、爆撃にによって203mとなり、それがこの高台の名前となりました。ロシア軍は5,000人、日本軍は10,000人の死者を出す壮絶な闘いとなりました。砲弾のかけらを集めて、弾丸の形をした記念碑を建て、乃木大将が『爾霊山(ErLingShan):爾(なんぢ)の霊(れい)の山』(203ErLingSanとかけている)と名付け、自筆の文字を刻んだそう。


ここからは旅順港や市内が見渡せ、とても見晴らしが良いので、軍事拠点として重要だったことも理解できます。多くの犠牲が払われたというとても悲しい場所でもあります。高さは10mで、よく見るとロシア語のいたずら書きも。

入り口には往復100元の籠もあり。

ロシアの壕が周囲にあり、深さ・高さも1.5m以上!


右上が旅順港、大砲は本来は逆側に向きに。

ひっそり佇んでいた乃木大将次男のお墓(裏側)
▲TOPへ戻る
 Aロシアの要塞、東鶏冠山堡塁

長さ約500m、広さ約10,000u、その中に大砲が25もあり、攻めるのがとても難しかったロシア側の要塞。現在は文物保護区域にもなっています。まず最初に訪れたのは、日俄戦争記念館。歴史を追って写真が並んでいます。東郷平八郎、広瀬武夫など当時活躍した人々の写真もありました。軍神と呼ばれた広瀬さんが亡くなった旅順港を見て、本当に戦争があったんだな、と実感。この記念館で流れを確認してから景色を見ると更に印象が強く残ります。ガイドさんによると、中国ではロシアを表す漢字は『俄』ですが、日本は『つゆのように消える国』という意味をこめて『露』と変えたそうです。

杉野はいずこ』 〜日露戦争秘話 〜 著者:林えいだい
日露戦争当時、旅順港に船をを沈めて、ロシアの軍艦などが旅順港から出れないようにする作戦を行った時、広瀬武夫が部下、杉野がいない事に気がつき、探している最中に爆撃され殉死した。この事件で広瀬は『軍神』とされ、東京には銅像まで建った。当然杉野も殉死したと思われていたが、戦後に中国で生きていることが確認された!皆が良く思わなかったとしても、広瀬は絶対にあの世で喜んでいたに違いない!それよりも後世の人々が平和に生きてくれることを何よりも望んでいるに違いない。戦争体験者が一番命の重さを知っているのだから・・・祖父が毎年大晦日に一人で靖国にお参りしていた意味は何か?犠牲になった部下を思う気持ち、自分が生き残っている罪悪感、平和を願う想い、色々な感情が絡み合い複雑だったはずなのに、他人には言わず、自分だけで気持ちの整理をしていた・・・戦争の後遺症はずっとずっと長く続くあまりに辛いものなのです。二度と起こしてはいけないと・・・

次に戦闘の様子が生々しく残っているロシア機銃陣地へ。木々と要塞に囲まれた1本道は今では舗装されていますが、歩くだけでもゾクっと。壁には無数の銃跡、所々に爆破した様子も。自分が撃たれているような錯覚を覚える場所でした。これらの壁は旅順で多くとれる卵石ともち米で出来ているそう。昔はこの壁の中を歩けたそうですが、現在は危険になってきているので通行禁止。確かにヒビが入っていたり、石が落ちていたり、いつかバタっと崩れそうな感じもしました。砲陣地は少し高い所にありました。



東鶏冠山北保塁の碑へ向けて歩く途中に指揮室ロシア軍舎などがあり。何度も日本軍が攻めても上手くいかなかったこの場所。あるスパイの情報でコンドラチェンコ少将の居場所が分かり、日本軍が爆破。それにもかかわらず、少尉の指揮の素晴らしさを讃えて、その場所に記念碑を。少将は一度旅順に埋葬された後、再度サンクトペテルブルグに埋葬されたとのこと。そのすぐ横には【この歴史を肝に銘じて、国としての恥を忘れるべからず】と言う建て看板が。意味は自国の領土にも関わらず、ロシアと日本という外国に戦争を許したということを恥と思えと。8つの漢字がとても重く感じます。


1916年に建てられた碑。当時は今よりも5℃ぐらいは低く、12月はとても寒かったのではと思いますが、よくここで生活していたなぁ〜と思うほど。ただ実際の建物内は夏は涼しく冬は暖かく、機能的な造りだったそうです。調理場も注文するのと受け取る場所があります。

当時の玄関、右側は調理場。

コンドラチェンコ少将が戦死した場所に石碑!


光が入る2F建てでしたが、床が無くなっています!

弾薬庫も静かに残っていました

望台砲台(東鶏冠山堡塁の西側)
日露両軍にとって旅順での最後の戦場となった場所で、山の頂上には記念碑と大砲の一部が残っています。この大砲は1899年に現在のサンクトペテルブルクで作られたものだそう。ここの場所を日本軍が占領したことで、ようやく日露戦争の終結を迎えたそう。東鶏冠山堡塁からは薄っすらと遠めに見えたのですが、大砲から本当にあんなに重たいミサイルが飛ぶかと思うと信じられません。しかし、今でもひっそりと佇んでいる姿を見ると、亡くなった方が多かっただろうと思うばかりです。どうして戦争が起こってしまったのかと悩むばかりです。
▲TOPへ戻る
 B水師営会見所

203高地が陥落した後の1905年1月5日にロシアは降伏し、その際ステッセル中尉と乃木大将の会見場所となったのがココ。野戦病院の手術台をテーブルにして、話し合いが行われたそう。いつもいる日本語ガイドさんは春節でお休みだそうで、うちのガイドさんが説明を!右下の集合写真は、この会見で撮られた1枚限りの写真だそうで、当時机として使用したという手術台の上にも額縁付きで飾られていました。建物内には日露戦争に関する写真が多数貼ってあります。

▲TOPへ戻る
 Cその他〜旅順の風景など〜

風光明媚な旅順にとりつかれてしまったFUJIKO。ここは本当に美しい。是非とも外国人に開放して欲しい場所です!中国のようで日本のようで外国のようで、美しい街で、ロシア風の建物もあり、海や山の自然の美しさも最高!アモイで受けたより、もっと日本的な印象があり、穏やかで懐かしさも感じられる場所でした。ある意味、大連よりも美しい街のように思いました。軍港が無くなるとは思えませんが、何かこの魅力を観光地として見せて欲しいものです。残念ながら上記の3ヵ所以外は外国人に開放されていませんが、いつか開放されたら是非とも訪れたいと思っています。

 ◆旅順博物館 住所:列寧街42号 (当時:関東都督府博物館)

1917年に建てられた建物で、中には文物や資料が10万点以上もあり、展示品は3000点にものぼるとのこと。大谷探検隊が寄付したものも多数あるそうです。スルっと通り過ぎてしまったので、写真は無いのですが、1988年以来、何度も日本で展示会が行われているそう。確かに、友好経済交流協定を結んでいる青森などでは旅順博物館展があったようで、中身は両国間を行き来しているようです。

新シルクロード(第13巻)DVD』 著者:長沢和俊、平山郁夫
大谷探検隊の大谷光瑞は大連や旅順にも滞在したことのある西本願寺第22代門主。仏教遺跡の調査、仏典史料などの文物の収集を行う目的で3回も中央アジアを回っていますが、以前FUJIKOが行ったカシュガルトルファンなども含まれています。何が驚くかって100年前の話だからです。今でも上海からカシュガルまでは飛行機で7時間ぐらいかかるのに、どうやって回っていたのでしょう・・・だから高価なラピスラズリも無くなっていたのでしょうか?(笑)彼らは中央アジアで発掘した品々をココに寄付したりもしています。日本の管轄だったものの、一時はロシアの管轄になっていたりと、歴史的には複雑な博物館です。偶然T記者が元々浄土真宗(HP)だったこともあり、ちょっと本願寺と聞いて気になった次第ですが、色々な門主がいるものだな、と感じます。この頃は世界的にも色々な発掘や探検がブームとなっていましたが、まさか日本人がいたとは・・・シルクロードというのは魅力の宝庫!
 ◆旅順高等女学校旧址(旅順高女) 住所:列寧街24号 解放軍215医院西楼の北半分2F (文化街28号)

1910年に満州で初の女学校として創立され、1945年までに5,000人もの卒業生を送り出した学校です。Fさんが卒業生でかつ教師をされていた学校です。当時は貴族や子女が通う女学校として知られていたとのこと。去年は80歳を越えたここの卒業生が見に来たそうで、建物が残っていたのは本当に幸いです。彼女らの記憶があるうちにガイドさん達にもしっかり伝えて欲しいものです。
 ・当時の写真@(大連図書館HP)⇒現在は白い建物に金色が塗られています。
 ・当時の写真A(大連図書館HP)⇒奥の建物で、現在はその先に門があり列寧街と面しているので、門から見ると向かって右側。


清朝の王女に生れて』〜日中のはざまで〜 著者:愛新覚羅顕g(あいしんかくらけんき)
東洋のマハタリ、東洋のジャンヌ・ダルクと呼ばれた男装の麗人・川島芳子が清朝・粛親王の第14王女で、妹の著者は第17王女。父の粛親王は正妻以外に4人の側室がおり、38人の子供がいたそう。著者は88歳と高齢になっても厚木市を訪問していたり、精力的に仕事をされているのに驚かされる。彼女は旅順で生まれ、日本女子大と進学した後、終戦を迎え中国に戻る。しかしその後は長い監獄生活を送ることとなる。自由になった後の結婚生活、仕事、北京での生活なども書かれている。
色々たどってみると、清朝2代目のホンタイジの長男が初代粛親王で著者の祖先、9男が3代目の順治帝で、12代目のラストエンペラーとして有名な愛親覚羅溥儀(ふぎ)に繋がっており、彼女や川島芳子と溥儀は親戚にあたるということになる。清王朝の家系図を発見しましたので、ご参考まで⇒愛新美術館HP(家系図はコチラ)。


 ◆旅順高等公学校(旅順師範学堂)旧址 住所:列寧街24号 解放軍215医院 (文化街28号)

1916年に旅順師範学堂速成師範科と金州南金書院速成師範科が合弁して旅順高等学堂師範科ができ中国人学生が学び、1918年には旅順師範学堂という男子校になり、大連地区での初めての中国人の教師養成所となった。1932年に旅順第2中学と合併し、旅順高等公学校となります。
 ・当時の写真(大連新聞網)⇒現在は面影を残したまま解放軍215医院となっています。

 ◆旅順高等公学校宿舍旧址 住所:斯大林路西段2号

1902年に建てられたロシア風の建物。もともとロシアの陸軍病院として使われていたものを、日本軍が占領して1924〜45年まで使用。1924年に旅順第2中学を設立し、1932年に上記の旅順師範学堂と合併して、旅順高等公学校となったので、ここがその宿舎と。
 ・当時の写真(大連新聞網)⇒現在は面影を残したまま解放軍215医院となっています。

 ◆旅順大和旅館旧址 住所:文化街30号

旅順のヤマトホテル。1903年に建てられた中国の豪商の家として建てられ、1906年に満鉄によって大和旅館となった。豪商は白玉街に事務所も構えていたのですが、それは西本願寺となりました。またまた大谷光瑞繋がりですが・・・1927年にはモンゴルの将軍カンジュルジャップと川島芳子の結婚式も行われました。仲人は関東軍参謀長の斎藤恒とのこと。1931年には溥儀が2Fでほぼ監禁状態で滞在し、1932年には1Fで板垣征四郎と満州国成立の杯を交わしたとのこと。関東軍に仕切られていた様子が目に浮かびます。
 ・当時の写真(大連新聞網)
 ◆関東都督府旧址 住所:友誼路59号

1900年に建てられたロシア風の建物で、日露戦争勝利後に一時期関東都督府となっていた建物。途中で旅順師範学校になったこともあったが、結局1945年にロシアに渡り、一部は娯楽施設となり、1955年に中国に引渡しされたそう。
 ・当時の写真(大連新聞網)

 ◆旅順駅 場所:旅順港や解放橋(旧日本橋)の近く

ロシアが占領していた1900年に建てられたゴシック建築の建物で、満鉄支線の終点であった。現在も大連からの往復が1日1便あります。(2008.02時点では大連発6:55-旅順着8:39、旅順発15:59-大連着17:47) しかし、外国人はこれで乗ってしまうと駅が未許可地区など問題があるので、中国人向けと言えます。現在は緑の屋根に白い壁の木造で、当時の姿のままとなっています。
 ・当時の写真:全体像入り口 (大連図書館HP)

 ◆旅順港 場所:旅順駅の目の前


203高地より見えた旅順港。帰りに近くを通過する際に、運転手さんが止めて少し見せてくれました。近くで見ると軍艦が多数あり大きく驚きました。かつては【世界五大天然良港】としても選ばれたほどだったそうで、とてもキレイで素敵な場所です。歴史をたどると、1880年に清朝が建設し、北洋艦隊を誕生させた場所でもあるそうで、その後でロシアの太平洋艦隊が来て、日露戦争で日本がやって来たとのこと。ロシア撤退後の1955年には中国に戻され、今では外国人が立ち入れないほどすごい軍港となったのです。ちょうど横須賀のような感じです。大連に帰る際も海沿いの道を走るのですが、色々な養殖が行われています。アワビなどが安いのもそのためです。だいたい小さいのが1個20元ぐらいからで、堪能できるのが良かったり。大自然の海と人工的な軍港という何だか不思議な組合せ。

 ・当時の写真:日清戦争前の全体像、1904年当時の旅順東港@A(大連図書館HP)

 ◆その他

ガイドさんが説明してくれた場所をまとめてみます。
 ・蛇島:蛇が冬眠する間のみ渡れる島。蛇だけが生息する島として有名とのこと。
 ・勝利塔:1955年にロシアが建てた中国とロシアの友好を示す塔、別に中ソ友誼塔もあり。
 ・白玉山:旅順港が見渡せる白い塔で、日本軍が表忠塔とした塔がある場所です。ここは中国人用のツアーではかなり行きます。
 ・日露監獄旧跡:1902年にロシア軍が作り、1907年日本軍が拡大した監獄で、これも中国人用のツアーだと行く場所です。
▲TOPへ戻る
Copyright (C) Kurza All Rights Reserved.
このウェブサイトの著作権は、くるざ 上海 にあります。掲載された文字や画像などの無断転載は禁じられています。
inserted by FC2 system